コンパス

オランダ語:passer、英語:compass

コンパスは、円を描いたり、線分の長さを移すのに用いる文房具・製図器具である。 中心機構で接し自由な角度に開閉できる2本の脚からなる。ぶんまわし(規、ぶん回し)、両脚器(りょうきゃくき)、円規(えんき)ともいう。 また、かつて根発子(コンハッス)と宛字されたこともある。「コンパス」の原語はオランダ語の kompas であるが、これは現代オランダ語で方位磁針のことを示す。 近代オランダでは passer と言う。 コンパスは円周を描くために必須の道具ではなく、『支点とそこから等しい距離を維持したまま移動できる状態の筆記具』(例:輪になった紐とペン、それから針もしくはあるいは棒、画鋲など)があれば代用ができる。 日本の学習指導要領では小学校第3学年で扱い始める。

歴史

嘉永元年(1848年)幕府は佐久間象山に洋式野戦砲を作らせ、品川に砲台を作らせるなど当時国防多端の折柄鉄砲の需要が急増し、その当時かんざし屋刀のツバの仕上げ等のかざり職人が鉄砲鍛冶となり、
さらに転じてその一部の人々が製図器械を作るようになった。そのあと鉄砲鍛冶などから製図器械に転じた者のほかに、明治の中頃からは医療器械の外科用器具職から転じた者、あるいは造兵所や砲兵所からの転職者から製図器械を製作する一派を開いたものもあった。
江州日野の生まれで、鉄砲鍛冶の和田熊吉の次男、和田貞一郎が明治2年(1869年)に初めて仏蘭西式のコンパスを作った。これが日本での洋式文廻しや烏口など即ち製図器械製造の元祖である。徳川藩の鉄砲鍛冶であった山崎鉄五郎もまた烏口やコンパスを作り、
ほかに御玉池に大熊某なども明治の初期における製図器械の製造家として登場する。 そして、明治10年(1877年)、関谷弥助(山崎鉄五郎の姻籍)も英式コンパスを作るようになった。
その後、和田、山崎、関谷を製図器具製造家の三派と称し、互いに連絡を保って親しく往来していたという。その当時は、そのほかにも、きせる屋から、外科用刃物の鋼打師から、あるいは海軍工廠工員か転じた者もあって、製図器具製造は隆盛を極めたという。
明治8年(1875年)銀座で時計や測量器械を売っていた玉屋の下請けで時計鎖を作っていたかざり職人の沢田金太郎は船来品を見本として仏式コンパスを独学で作り始めた。 その後、横須賀海軍工所から転職して比例コンパスを専門に作り始めた斉藤三郎が一派を興し、
医療器械職からスプリングコンパスの製造に転向した石井留吉が小石川砲兵所の職工から独立してコンパスを作り始めた。 杉崎清三郎一派が一時隆盛を極めた。その後、ものさし製造家藤山捨吉が製造器械を各派から集め、大量的に製図器械の製造を始めたが、
工員の技術指導者は上記の流れを汲む人々であった。材料は打物であったが烏口とスプリングを除くその他の製図器械の材料は明治18年(1885年)頃、和田貞一郎先生の指導により川出竹松という鋳物師が鋳物を作り始めた。
大正5年渡辺寛が、現在のD式という独逸のリヒテル型を国産化した時に、始めて洋白の板と棒を使い始めた。現在は仏式、英式、D式などはいずれも一部の製品を除いてほとんど鋳物である。

構造

中心機構

中心機構は、2本の脚が接する角度を調整する。

簡便なものは中心機構のみが可動で、それぞれの穂(脚の先)は紙に斜めに接する。製図用コンパスは、精度を上げるため、それぞれの脚の中間でも曲がり、紙に垂直に接するようにできる。伸縮可能な脚もあり、コンパクトでも、大きな円を描くことができる。

片方の穂(脚の先)は針になっていて、紙などに軽く突き刺して固定する。基本的には、もう片方の穂が筆記具となっており、固定端を中心とした円を描ける。穂には、芯ホルダー、カラス口、製図ペン、ディバイダ、ペンホルダー、シャープペンシル等を取り付ける。