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インスタレーションとパフォーマンス・音楽の共演

岩渕貞太|
パフォーマンス
八木良太|
美術
蓮沼執太
音楽

アート・コンプレックス 2014

タイムトラベル

2014年12月23日(火・祝)
19:00開場 / 19:30開演
  • インタータイム・トラベル / 平倉圭, photo: Gosuke Sugiyama / Gottingham
  • インタータイム・トラベル / 平倉圭, photo: Gosuke Sugiyama / Gottingham
  • インタータイム・トラベル / 平倉圭, photo: Gosuke Sugiyama / Gottingham

現代美術と、ダンス、音楽など他ジャンルの表現を実験的に関係させることで、新たなアートの創造を試みるプロジェクト“アート・コンプレックス”。
今回、八木良太展「サイエンス/フィクション」の会場で、振付家・ダンサーの岩渕貞太と八木によるパフォーマンスを行います。岩渕は、綿密にインスタレーションが仕掛けられた空間の中で、蓮沼執太の音楽、そして、八木の撮影・編集による、時間を操作された自分自身との映像と向き合い、動きます。時間の速度がさまざまに変わることで、これまで見えなかった動きや聞こえなかった音が立ち現れてくる「タイムトラベル」、ぜひ、ご体験ください。(チラシより抜粋)

岩渕貞太
1980年神奈川県生まれ。ダンサー、振付家。
2005年より、「身体の構造」や「空間や音楽と身体の相互作用」に着目した振付作品を発表する。2010年から大谷能生や蓮沼執太など音楽家と共に身体と音楽の関係性をめぐる実験作を継続的に発表。その他にもア二メーション作家など、他ジャンルの作家とのコラボレーションにも精力的に取り組んでいる。世田谷美術館のエントランス、横浜美術館グランド・ギャラリー、六本木アートナイトでの野外公演など劇場外でも空間の特性を活かしたパフォーマンスを発表。その他ワークショップの開催など多方面で活躍している。関かおりとの共同振付作品『Hetero』で、横浜ダンスコレクションEX2012「若手振付家のための在日フランス大使館賞」を受賞。セゾン文化財団ジュニア・フェロー。
http://teita-iwabuchi.com/

蓮沼執太
1983年東京都生まれ。音楽家。
蓮沼執太フィルを組織し国内外でのコンサート公演、コミッションワーク、映画、広告、舞台芸術、プロデュース、他ジャンルとのコラボレーションを多数制作。アルバムに蓮沼執太フィル『時が奏でる|Time plays - and so dowe.』。近年の公演に『作曲:ニューフィル』(2014年神奈川芸術劇場ホール)、『Music Today on Fluxus 蓮沼執太vs塩見允枝子』(2013年国立国際美術館)。主な個展に『音的|soundlike』(2013年アサヒ・アートスクエア、神戸アートビレッジセンター)など。著書に『音楽からとんでみる』。
http://www.shutahasunuma.com


タイムトラベルについてのテキスト

平倉圭
芸術理論

間‐時間トラベル

平倉圭
1977年生まれ。芸術論、知覚論。横浜国立大学講師。
著書に『ゴダール的方法』(インスクリプト)。共著に『美術史の7つの顔』(未來社)、『ディスポジション』(現代企画室)。論文に「識別不可能性の〈大地〉──ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」(『思想』999号)ほか。

I

2014年12月23日19:30〜、神奈川県民ホールギャラリーにおいて岩渕貞太・八木良太・蓮沼執太によるパフォーマンス『タイムトラベル』が行われた。同ギャラリーにおける八木良太展「サイエンス/フィクション」の会場を用いた一回限りの公演だ。

『タイムトラベル』は次のように構成された:

[イントロ](約6分)

八木がスーツケースから多数の壁掛時計を取り出し、掛ける。スーツケースの上にメトロノームを置く。

[第一部](約22分)

並行する3つのプロセス:

(1)岩渕のソロダンス
(2)八木の音鳴らし(風鈴、解体された振り子時計etc.)
(3)蓮沼のピアノ演奏と音再生

八木と蓮沼は客席側で演奏する。第一部の音と映像は録音・録画され、第二部で使用される。

[第二部](約33分)

並行する3つのプロセス:

(1)再生された第一部の音+映像
(2)岩渕のダンス
(3)蓮沼のピアノ演奏と音再生

映像は空間中央に吊られた透過性スクリーンに奥から投射され、八木によってリアルタイムで加速/減速/グリッチを加えられる。合わせて音のピッチも変わる。岩渕は、第一部の自分のダンス映像と共に踊る。

『タイムトラベル』のテーマはおそらく2つ。

(A)時間の複数化
過去と現在の重ね合わせ。音と映像の加速/減速/リピート。複数の時計。複数のメトロノーム。異なる周期で回転する岩渕の四肢・首・腰。これらによって「時間」を複数化すること。

(B)エージェントの複数化
岩渕・八木・蓮沼による緩く結合した同時並行プロセス。特に映像の岩渕を中心的エージェントとして、生身の岩渕と、機器を操作する八木・蓮沼が共にパフォームすること。


『タイムトラベル』の困難とスリルは第二部、映像「と」踊ることの難しさに集中している。困難は仮に3つに分けられる。

(a)映像との関係の不確定性・一方向性
生身の岩渕とその映像の振付はあらかじめ定まっていない。映像と現実をぴったりシンクロさせる今ではありふれた見世物的ダンスとは異なり、本作では、動きのタイミングは先に決定されていない。岩渕は第二部で、映像との関係をつかもうとし、映像から自身の動きを立ち上げようとするが、うまくいかない。あるいは、「うまくいく」とはどういうことかが定まらない。そこでは、映像の岩渕こそが「自律的」なエージェントとなり、生身の岩渕は映像の動きに対する「受け手」として、従属的なエージェントとなるかに見える。結果、観客の眼は生身の岩渕ではなく、映像にこそ集中する。

(b)映像のハイブリッド性
岩渕が向きあおうとするのは、「過去の自己」でも「現在の他者」でもない、両者のハイブリッドだ。その動きは、紛れもなく約30分前の岩渕のものだが、八木の手でリアルタイムで加速/減速/グリッチ加工されることにより(VJソフトとVestaxの物理コントローラを使用)、映像は部分的に他者化され、間欠的に現在化される。そのことが安定した関係を難しくする。

(c)映像の内感不可能性
当然のことだが、生身の岩渕は、映像の岩渕の体を内側から感じることができない。映像と動きを合わせるには、視覚(スクリーンの映像と、客席後方に映り込む像)と聴覚(映像の加速/減速に合わせて変わる音のピッチ)を介する必要がある。そのことが岩渕のダンスに一種の制限をかける。

(a)〜(c)の困難は、観察者/分析者としての私に次の問いを生む。本作における踊りの「モチベーション」はなにか。それはどこから・どのように調達されるのか。

本作における岩渕のダンスは、後に論ずる「時計モチーフ」をのぞけば表象的でなく、明確な何かの形や物語を表さない。また、音楽に乗って踊られるわけでもない(ただし音との複雑な関係がある)。強い情動や、特別な妄念に基づいているようにも見えず、フラットだ。つまりそこでは、ダンスを引き起こす、ダンスの「外側」の理由が薄い。その分、踊りのモチベーションはダンスの「内側」から内在的に作り出される。後に見るように第一部の岩渕は、身体を複数の部分に割り、部分間に時間差(先立ち/後追い)をつくることで、踊りの継続を可能にしている。

では、「内側」の範囲が変わる時どうなるのか? 機器と映像を介し、ダンス・システムの輪郭がダンサーの物理的身体から外側に拡張される時、当のダンサーは踊りの理由ないし根拠をどのように調達するだろうか? しかもダンサーがシステムの全体に起きていることを内感できないときに? 危険はつねにある。ダンサーが自分の身体に引きこもり、システム全体の調整を他者に委ねてしまう危険が(それを危険と呼ぶならば)。本作はどうか? 岩渕のダンスを中心に見ていこう。

II

山城大督が撮影・編集した本作の記録映像が手元にある(time_travel_full_20141225.m4v)。まずは第一部のソロダンスを6つのフェイズについて見てみよう。タイムコードは当該の映像ファイルによる。

(1)ポーズと連鎖

はじめに岩渕はいくつかの「基本ポーズ」を取る。片腕を体から軽く離して浮かす、あるいは頭上に力を抜いてゆっくりと持ち上げる。腕の重さを確かめるように。ときに片足裏を踵だけ残して持ち上げる。動きの根拠、あるいは感じ取られるコントラストの核を、「床/足裏」から体の内側に移していくようなポーズだ。

動きが始まる。右足を内旋、左踵を浮かした不安定な姿勢から、両肩−両肘を持ち上げる(8:20-8:22)。腰・右膝緩めて体を落とし、左肘緩めて左前腕だけ上へ回旋する(-8:24)。左足は踵着地するとともに外旋。安定した足元から再び腰・膝を伸ばして浮上する(-8:26)。今度は右つま先を前に回して持ち上げる(-8:27)。へにゃりとした全体の動きのなかを局所の浮上が移動する。

右足首はそのまま外旋(-8:28)。約1秒遅れて後追いするように首が右方(ダンサーから見て。以下同様)に外旋する(-8:29)。さらに1秒遅れて右腕がすばやく飛び出して胸へ戻り(-8:30)、戻る右腕を受けるように首がぐるりと左を向く(-8:31)。首到着とともに両腕が開かれ、顔・右つま先が正面を向く(-8:33)。ここでは身体が複数の部分に分離され、部分間に時間遅れで生じる動きの「エコー」(反響・反復)によってダンスが生み出されている(例:異部位における「外旋」の連鎖)。メトロノーム(BPM=60)の規則的打音は、動きの読み取りグリッドとなる。

(2)音との関係

ピアノの音が始まる。岩渕が両肩を持ち上げストンと落とすと、わずかに遅れて蓮沼のピアノが一回トーンと鳴り、岩渕が両膝を折る(9:09-9:11)。動きが音のきっかけをつくり、音がまた動きを引き出すという時間差フィードバックだ。

音が増えるとその関係は複雑だ。八木がカチカチカチ…という音を鳴らすと、岩渕の右前腕がそれを受け止めるように前後する(11:28-11:29)。蓮沼がピアノを叩くと、右前腕は応じてすばやく一旋回し(-11:30)、響きを受け止めるように右掌が開かれる。開いた掌を振り下ろすのに合わせて膝開き背中落とし、両足裏の内側を浮かせる(-11:32)。その不安定な足元から再びカチカチ音に吊られるように両肩が上がる(-11:34)。吊られた右肩が後方に回旋(-11:38)、遅れてすばやく首が右旋(-11:39)。首・肩がともに前に回った後、右肩だけさらに後ろに引いてから右腕が前に伸びて途中で止まり(-11:41)、そのまま右手を支点に首‐体幹が右方に巻く(-11:44)。音を受け止める局所の動きが、部分から部分へとエコーしていく。

(3)分離とエコー

身体の複数部分への「分離」と、部分の「エコー」(時間差を伴う反響・反復)が、このダンスの基本構造をなす。さらに見よう。鐘の音が鳴るなか、岩渕が右手を上から前に振り下ろす(14:19-)。1回、2回。2回目の振り下ろしで右手は正中から右方にすっと流れ(-14:22)、右手をその場に残したまま、左膝と顔が左方を向く。右手と顔を残したまま、左膝はすばやく右方に内旋して閉じる(=右手のエコー。ただし加速)。左膝が内旋し終わるタイミングで、左腕がすぱっと上に振り上げられる(-14:23)。左腕の頂点を追って顔が上向く。顔を上向きに残したまま、左腕は前の空間を触るように振り下ろされる。左腕が前に出るタイミングで右手を上に抜く。右手は右方から孤を描いて股の前へ落ちる。体屈む。左膝外に開く(-14:24)。顔と左手は残したまま。左膝再びすばやく内に閉じ、その動きを受け取るように、両肩が後方回旋、胸を開く(-14:25)。遅れて首が大きく右上に回旋。顔を右向きに残したまま、右腕は反対の左方へヒュンと伸びる。釣られるように顔、体幹、脚が左を向いて一瞬宙でポーズ(-14:26)、と思いきや、右手が軽くすばやく後ろに飛ぶ(-14:27)……。すばらしいシークエンスだ。

岩渕はここで、(a)身体の部分的運動→(b)動いた部分を分離して空間に残す→(a')異なる位置と方向と速度で行われる次の部分的運動→(b')動いた部分を分離して空間に残す→(a'')……というプロセスを1秒より小さい時間単位でつないでいる。(b)-(a')によって身体は「分離」され、かつ(a')が、(a)の動きを位置・方向・速度を変えてエコーする。このときエコーは、分離の解除も伴っている。身体の各部は物質的に強結合しているため、分離をそのままにしておくことはできないからだ(八つ裂きはダンサーの死だ)

分離は時間差で取り戻され、遅れた取り戻しが次の分離へと延長される。このことが、次々寄せるさざ波のような動きを身体に起こしていく。身体を自己差異化していく局所的な運動のエコーが、踊りのモチベーションを内在的に生み出すのだ。規則的かつずれを伴うピアノの打音がエコーを増幅する。

(4)そのつどの「接地」

「分離」を可能にするのは、動いた身体の部分を3次元空間の特定位置に「残す」動きだ。残された部分は時間的にも過去化されるので、4次元空間と言ってもいいかもしれない。振り下ろされた右手を時空の一点に仮固定して残し、左膝を開く。すると右手と左膝が異なる時空間に分離される。このとき、残された部分は、踊りの一般的根拠としての「床」の代わりになる、見えない「地面=根拠(ground)」をそのつどの時空に仮留めする。

18:31-18:47で繰り返される「落下」を見よう。1回目:持ち上げた右腕の力を抜き、腕が落ちてくるのに合わせて腰も落とし、尻が付く直前に左手で支える(-18:35)。このとき落下する右腕と体幹のベクトルは一致している。2回目(18:37-18:41):右腕を持ち上げていく途中で、反対方向に腰を落とす。右腕と体幹のベクトルが分離される。ただし右手は腰につられて落ちてもおり、分離は完全でない。3回目(18:43-18:47):2回目同様、右腕を持ち上げながら腰を落とす。しかし今回は、腰が落ちきる一歩前、左手が床につく直前の1秒間身体が宙で静止し、それによって右手が空間の特定位置に残される! 分離の完成。このとき体の基準点になっているのは、床ではなく空中に残された右手だ。こうして床は相対化され、時空に仮の「接地」点が置かれる。仮接地点に部分を残すことで、身体は複数に分離される。

(5)速いエンプティー・タッチ

ダンスが速くなると動きは完全には分離されない。このとき「接地」は、空間を軽くすばやく触れていくような特徴的な動きになる。これを「エンプティー・タッチ」と呼んでおこう。

時間が前後するが、15:26-15:59のシークエンスを見よう。喉元を開き、右肩を落としていく(-15:29)。途中で首だけ左へ外旋(-15:30)。非反復的なピアノの打音に合わせて以下の運動がリズミカルに続く。首を左から下向きに内旋(-15:31)、左膝外旋→内旋(-15:32、首内旋のエコー、左肘開いて前腕落とし(-15:33)、両肘軽く持ち上げて下ろし、両肘次いで両膝軽く開き(-15:34)、わずかに遅れて腰落とし、膝閉じ、腰上げて胸開きかけ(-15:35)、背中落とし(-15:36)、背中・両腕持ち上げ(-15:37)、両手落とすが胸は残し、首上げ(-15:38)、膝緩め腰落とし、顔を右に(-15:39)、腰伸ばし、顔と両手を軽く落とし(-15:40)、右手持ち上げ、頭左に倒し(-15:41)、腰を落として‐また持ち上げながら首回し、右掌開いて上げ(-15:42)、両手軽く落として回す(-15:43)。ピアノの音が速くなると動きは重なり、空間のあちこちを手、頭、膝、肘で軽くすばやく触るような動きが現れる(-15:55。エンプティー・タッチ。ピアノ音がジャラーンと下るのに合わせて両腕をぐるぐる巻きながら腰落とす(-15:57)。両腕を抜くようにして浮上。

概して言えばここでは、メトロノームの反復的打音とピアノの非反復的打音に支援されながら、身体の仮接地と分離、細かいエコーが起きている。音が重なるにつれ、接地は速いエンプティー・タッチに変わる。行ってもいつかは戻る体の動きと、上がってもいつかは下がる音は、打拍を介して緩く結びつき、時空に多数の仮接地点を置いていく。

(6)時計モチーフ

音と身体は、非即興的で計画的な振付である「時計モチーフ」を介しても結びつけられている。時計はこのダンスの主題的かつ形態的なモチベーションをなすが、そこで示されるのは時計の「図解」というより、むしろ身体の諸関節が、そもそも回転し、あるいは振り子状に振動する周期的動きをもつという事実だ。身体は異なる周期で回転する複数の「時計」なのだ。

時計モチーフがはっきり示されるのは、22:30-24:30。メトロノームと鐘が鳴るなか、上下するピアノの反復に複数の音が重ねられ、増えていく。その間身体は、右肘の回転に始まり、左肩・右肩・左肘の回転を重ねていく。さらに両足首・両膝の内旋/外旋、腰・首・股関節の回転が重なる。回転は次第に自由に軸と向きを変えていく。身体は複数の「時計」となる。各部の回転は互いに分離される、と同時に、物質的に強結合しているゆえに互いにもつれ、引き込み、後追いしあう。なお、冒頭では1つだけ鳴っていたと思われたメトロノームは、この頃にはBPMがわずかにずれる2つが鳴っていたことがわかる。

この時計モチーフが、『タイムトラベル』のダンス全体を測定可能にする動的なスケールとなる。先の速いエンプティー・タッチのシークエンスも、この時計モチーフの複雑高速なヴァリエーションとして、つまり複数の時間断片の重ね合わせとして見ることができるだろう。身体は内側から分岐する多重の周期構造なのだ。

第一部は、岩渕が空間の端に歩いていき、メトロノームを止めるところで終わる。

III

さて、第二部だ。第二部はスクリーンの奥から岩渕が現れるところから始まる。5つのフェイズを取り上げよう。

(1)向き合いの困難

岩渕が映像と向き合う(31:19-32:30)。腕の重さを確かめながらゆっくりと動くように見える映像の岩渕に対して、生身の岩渕は、動きで働きかけ、あるいは映像の動きを部分的に模してエコーし、間合いを縫うように遅くあるいは速く動いたりする。しかしその動きは当然、映像の中の岩渕には何の影響も与えない。そのために、動きの「根」が抜けてしまうように見える。一つの身体の内感に根ざして動きをエコー化していく第一部のダンスの確かさが、ここにはまったく無い。他方、映像は自らのリズムで自身を展開していく。映像のダンスこそが「自律化」し、生身のダンスが従属化・背景化するという驚くべき印象がここに生じる。

「根」の抜けた第二部のダンスは頼りない。しかし未知を前にする感覚がある。映像と生身の関係を振付によって「できたこと」にしてしまうのではなく、いま探り当てること。第二部における踊りのモチベーションは、その関係から立ち上がるだろう。しかし、目の前の生身を認知せず、認知しているようにも振る舞わない映像と共にあることがどうやってできるのか? そもそも映像「と共にある」とはいったいどういうことなのか? リズムを単にシンクロさせるだけでは足りないとするなら? 探索は茫漠として、踊りの根拠は不確かに失われるように見える。岩渕はその状況をあえて見せる。

(2)入る/抜く

続くシークエンス。生身の岩渕が映像に向かって攻めたてる(33:20-33:28)。その姿はギャグめいており、芝居がかってもいる。屏風の中の虎を相手にするようなものだからだ。ここではモチベーションの真実性が不明化している。だが、映像の岩渕がフレームの端で切れ、生身の岩渕が体をすうっと「抜く」とき、抜かれるその仕方は、何かしら確かだ(33:30-33:34)。映像の「中」に身体を入れようとし、抜く/抜ける。身は入りきらない(どこに「入る」のか?)。顔は映像を見ている。

映像は八木の手でリアルタイムで加速/減速され、音のピッチも応じて変わる。映像がスローになり、空間を低音ノイズが満たすと、生身の岩渕のダンスはより解放的な印象になり、引き伸ばされた時空に装飾的な動きを刻んでいく(34:30-35:05)。音の「中」に入ることができるからだ。これも映像からの身体の抜き/抜け方だ。抜くときに何かが感じられる。生身の岩渕と、映像の岩渕(+八木の操作)の間に一種の「粘性」があり、粘性が変化するときにこそ、不確かな間エージェント的出来事がある。

(3)ここにあらず

II(5)で記述した「エンプティー・タッチ」に至るシークエンスがスクリーンに映る(38:00-)。録音を覆うように低音のピアノが重なる。生身の岩渕はしばらく映像を見つめる(-38:16)。次いで、エンプティー・タッチに応える動きを肩と指先でつくる(38:19-38:27)。顔はしばしばスクリーンを向き、視覚的に確かめながら動きを探り当てているようだ。その動きは、身体を内感してエコーしていく第一部の動きとはまったく異なっている。「心ここにあらず」という言葉がぴったりだ。あるいは、「身体ここにあらず」。動きのモチベーションが身体の外に置かれることで、動きに隙間ができ、生身の身体が持つ現在性=現前性(presentness)が落ちる。身体に複数の時間が充ちていく第一部とは異なり、第二部は、過去が現在の現前性を奪い盗るような仕方で複数の時間が関係する。

(4)多重の緩結合

映像と生身は、音を中心的媒介として結合するとき真実性を回復するように見える。第一部で八木が鳴らした風鈴の音が、再生速度を段階的に変化させながら、アナログシンセサイザーのようにピッチを変える(39:55-)。断続的なスロー映像の前で、背中からゆっくり回転する岩渕。ピッチの上昇とともに前屈姿勢で立ち上がる、が、両足裏の内側は浮いて不安定だ(41:00-)。残った左前腕を垂らし、ぶらぶらと揺らす(-41:16)。大きく内に振り、止めて、腕の揺れを全身の揺れに変換する(-41:18)。左肘を回転(-41:20)。止めて、右踵少し開き、回転をさらに体に開くように背を伸ばしていく(-41:22)。胸落とし、左足引きながら左手首すばやくスナップ、右指伸ばしてエンプティー・タッチ(-41:26)。左足裏つき、右つま先を上げて、体の揺れを吸収(-41:27)。八木の声がスピーカーから聞こえ始める(41:28-)。その声は、第一部で逆再生されていたものを、さらに逆再生して「解凍」したものだ。他方、第一部で生演奏されていたピアノ音は逆再生され、立ち上がりが滑らかで後ろにピークが来る特徴的な到来音を作る。その音の広がりの「中」を岩渕の体が大きく縫っていく。映像も逆再生されているようだ。八木の声が言う。「……すごく人間的で……その人間的なものの考え方じゃなくって……寝る・起きる・寝る・起きる……のサイクルって……」(-41:55)。生の周期性について語っているようだ。生は複数の周期性、複数の時間に貫かれている。生身と逆再生映像が、その時間を撹乱し、多重化する。  音の膨らみを撫でるように、右手が弧を切る(-41:58)、右手の動きを首の後方回旋がエコー(-41:59)、首の回転をさらに上半身全体が拡張して加速エコー、右腕・右脚がずばっと後ろに飛び出す(-42:00)。左手・左膝を基準にして全身のまとまりを復帰(-42:01)、両手両股を軽く開く。映像の岩渕が逆再生で「ジャンプ」し両足から「落ちる」(-42:02)。エコーするように、生身の岩渕が砕けて膝をつき両手から「落ちる」(-42:03)。客席後方に映り込む像でタイミングをとっているようだ。右手上げて浮上(-42:04)。同じ手で空間をぐねぐねと撫で抜きしながら奥に潜る(-42:09)。このとき生身と映像は、音を中心的媒介にしながら拮抗し、ずれを伴う多重の緩結合を作り出している。第二部において最も複雑で、緊密なシークエンスの一つだ。

(5)3人目以降

53:12-1:01:00、映像がさらに重ねられ(第二部の映像?)、スクリーンには3人目、4人目、……の岩渕が映る。生身の岩渕の動きは、それまでの息苦しい「デュエット」から解放されてより軽くなり、複数の映像間を自由な速度で縫っていく。2人であることと3人以上であることは、これほどまでに違うのだ(3人には「中」がある)。応じて音も重ねられ、うねるようなノイズが強い音圧で空間を満たす。映像は暴力的に加速されていく。このシークエンスが本作のクライマックスをなす。理念的には最大の複雑さをもつはずだが、視聴覚的には構造が潰れており、印象は単調だ。圧倒的轟音で過去と現在をともに「現前」させてしまうこのクライマックスより、効果の不確かな手前のシークエンスにこそ、本作の核はあるように思う。

IV

ここに記述したのは1時間近い公演のごくわずかな断片だ。ダンスを言葉で記述すれば、読むことが困難なほどに長くなる。身体の論理は、線形の言語のようにまどろっこしくはない。

本作における踊りのモチベーションはどこにあるのか? ここでいう「モチベーション」とは、ダンサーの内面的・心理的質のことではなく、構成されたダンス・システムの継続的作動を可能にする動因のことだ。乱暴な推断にすぎないことを承知で言えば、第一部では踊りのモチベーションは、身体の複数部分への「分離」と「エコー化」から引き出されている。エコー化は身体の内感と、身体各部がそもそも物質的に強結合していることを基礎としている。だが第二部では生身と映像の間に内感的・物質的結合が無いため、エコー化の可能性は「芝居」(無い結合をあるかのように演じてしまう)と「失敗」(端的に結合がつくられない)の間に吊られ、結果としてシステムを作動させるモチベーションの不明化と再探索行為じたいが作品の焦点として浮上している。それゆえに魅力的で、弱い。このシステムは、どのように作動させればよいのかまだよくわからないのだ。この弱さはしかし、クライマックスで仮構される見慣れた「強度」より、遥かに真実性と価値があるように私は思う。

最後に、「タイムトラベル」とは何か。過去(映像)と現在(生身)の重ね合わせが、本作の大きな外枠をなす「タイムトラベル」だ。しかしより細かいスケールで、宛先も成否も定かでない局所的な「タイムトラベル」が起きている。この観察/分析から見えてくるのはそのことだ。

現実は一本のテープに乗って再生されるのではない。部分的に重複し、速さを変え、断続的に再生される、位置も方向も異なる複数のローカルな時間プロセスがある。腕の時間、手首の時間、腰の時間。あるいはピアノの時間、風鈴の時間、メトロノームの時間。それぞれのローカルな時間が分かれ、またもつれてひとつになるたびに、ローカルな複数の時間をつなぐ「トラベル」が起こる。小さな「間‐時間トラベル」が随所にあるのだ。

第一部を再生する映像は理念的には、このローカルな間‐時間トラベルをも二重化する。だが映像との向き合いは、別の大きな困難を生んでいた。ダンサーの「意識」の問題だ。私が「私の時間」を踊りつつ、同時に「私の映像の時間」を踊ろうとすれば、「私の時間」と「私の映像の時間」は、内感なき意識によってつながれなければならない。だが意識は、私の時間と私の映像の時間のどちらかにありえても、両者に同時にあることはできない。しかも、その映像には他人の操作が入り込んでいる。

困難は、私の意識が現在にしかないということだ。現在とは意識の現在のことだ。それは、分割されない。私の意識が複数の部分に分割され、ある部分が他の部分を時間差で後追いするということはできない。身体の時間は複数ありうるが、意識の時間は一つだ。現在=現前化されない意識は、端的に潜在化して無意識、あるいは他人となる。他人が意識の現在を乗っ取れば「憑依」であろう。だがもし憑依が、体外で生じうるとしたら、「それ」はいったい何を考えていることになるだろうか? つまりゴーストがダンサーの体に憑依せず、独立した姿でダンサーの体外に現れてしまう時、にもかかわらず同じ複数の私として踊る時、〈ダンサー+外的ゴースト〉はコレクティヴに何を意識し、何を踊ることになるのか? 本作が生むのはそのような問いだ。